エメ・ユズル

このブログがどんなブログなのかの説明はあとで書こうと想います。

寂しい時の対処方

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寂しい時の対処法を考えていたので記録する

 

最近、毎日仕事をしている

 

何連勤だろう?

 

だからなのか、今日は誰とも喋らなかった

 

あの人と今から会いたい

 

ふとした時に、

 

いつもの夜なのに、そんな風に思ったりはしないだろうか?

 

YouTubeで可愛い動物の動画でも見ればいつもはおさまるのに…

 

誰だって寂しい時はある

 

では、なぜ? さみしいと感じるのだろうか?

 

それは、

 

「自分が誰かにとって必要だと思えないからではないか?」

 

自分は誰かにとって必要だと思えない時に起こる様な気がする

 

自分は必要だと思えない、

 

誰からも必要とされていないという気がした事はないだろうか?

 

誰かに必要とされていると思うためには?

 

他人と関わらないといけない

 

いくら自分で自分が大切だと思い込んでも限界があるのではないか?

 

誰だって本当は寂しい

 

寂しいのは人間の宿命なんだろうか?

 

関わってもらえない

話を聞いてもらえない

 

そんな存在であるならば

 

自分は相手にとって必要だと考えるのは難しいだろう

 

また、関わるとしても自分のことを大切に思ってくれない人とは会ったとしても結局寂しいままだろう

 

女の子のつまらない話をずっと聞いてると人気者になれることってないだろうか?

 

それって、話を聞いてくれているのは大切に思ってくれている

 

そう、その女の子が感じるからではないだろうか?

 

しかし、たまにひとりでいても寂しくないと言う人がいる

 

人は誰しも必ず何かに頼って生きている

 

例えば、何でも話せる親友や恋人がいたり

 

自分の仕事に没頭していたり


没頭できる物が有れば忘れられる

 

さっきも言ったけれど、寂しさというのは自分が誰にも必要とされていないから感じるのではないだろうか?

 

自分が仕事をすることで多くの人に必要とされていると感じることができた場合、仕事をすれば寂しさを忘れられる

 

他人から認められれば自ずと満たされていくのではないだろうか?

 

何かに一生懸命打ち込むというのも同じ事の様な気がする

 

人に必要とされるための訓練を積む必要が有るのかもしれない

 

仮定をもう一度振り返るが、


寂しいと感じるのは、自分か誰かにとって必要な存在と思えていないからではないか?

 

ならば、認められる人になった方が良いのではないだろうか?

 

相手が間違った事を言っている、相手とは考えるていることが違う。

 

そうだったとしても、最初から相手の話しを否定してから自分の話をする必要なんてない

 

全て完璧である必要は無いのかもしれない、たまたま自分の時にその人はミスをしたのかもしれない

 

許す心、我慢する心、それが全くない人間になると

 

いずれ寂しい状況へいざなわれていくのではないだろうか?