エメ・ユズル

このブログがどんなブログなのかの説明はあとで書こうと想います。

どうしてスマホ依存になるのか?

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スマホ依存について、

どうして、子供にスマホを持たせるのは危ない!と言うのかの最近の論調のおおもとはこれなのだろうか?

 

なぜ、スマホを触ってしまうのか?

どうしてこんなにも依存性が高いのか?


人類の脳というのは狩猟時代に100万年程度の時間をけて進化してきたのではないだろうか?


人類が農耕を始めたのは今から7万年前程度の昔から始まった様だと研究が進んでいるそうだ


よって、狩猟時代の方が遥かに長い期間、人類は狩猟によって命を繋ぎ、進化してきたと考えられ


狩猟時代に築かれてきた本能とも言える反応が行動にでる様になっているのではないだろうか?


狩猟時代と聞くと、マンモスを狩ったりする姿を想像する方が多いかもしれない。


しかしながら実際のところは、木の実を採るのが食糧を採取してくる手段として大半を占めている可能性が高い


次に、木の実を集める行為について語る


木の実というのは、木に登れば必ず採れるというわけでもない


食べれる実がなっているのはたまにしかない


例えば、高い木の上に実がなっていて、下から見上げたとしても食べれる実がなっているかどうかは分から無い木が有るとする


その様な木に登って見て、我々人類は実際に実が採れるか確かめてきたわけだ


登ってみて、食べれる実が無いことも有る


登ってみて、何度かに1度、食べれる実が有ったら喜ぶ


有るか無いか分からない物に挑戦した結果、報酬を得る


木の実採取というのは、この様にギャンブル性の高い行為だったわけだ


他にも、ここで魚が居ると分かっていても、必ず魚が獲れるわけでもない


そうゆうものを人類は過剰に評価するようになっていったと考えられる


本来、狩猟に行くオスがギャンブルを好むのはこれが理由ではないかという説が有る


人類みな博打好きらしい


だとすると、ギャンブルというのは意思が弱い人が夢中になるものではなく


狩猟時代に進化した脳によって、本能的にギャンブルを好むようになっているのではないだろうか?


だから、先程の木の実採取の様に報酬が得られるか分からない事に次々と挑戦する個体がより生き残り易くなっている


逆にギャンブルに興味の無い様なものは子孫を残しにくい可能性が高くなるのではなかろうか?


我々はギャンブル好きの末裔なのだ

 


ついつい、いつもと違う道を通ってみた奴だったり、もう少し先の河向こうの土地まで行ってみようと思った奴によって今まで脈々と命を繋いできた


我々というのは、ギャンブルによって得たものを評価する奴らの生き残りである

 


だから、ギャンブルするだけで我々の脳内には快楽物質(ドーパミン)が出るようになっている


ギャンブルで得た成果だけでなく、ギャンブルをする行為だけで報奨系(勤労や努力にむくいるために金品などを与えてさらに、それをを高く評価してそれをするようにすすめる)


と言われるホルモンが分泌される


その結果、「もしも有る物」に対し、「当然有る物」の方が価値を感じにくい


「有るかどうか分からない物」に価値があるように感じるくせが我々にはついている


脳内伝達物質、ホルモンによって、そうなっている


スマホからの情報というのは、ギャンブルに似ており、大事かもしれないと思って通知を確認してしまう


例えば、LINEの音が鳴ったら、その通知のほとんどは大したことが無いと分かっていても、スマホを見るだけで我々の脳内にはホルモンが分泌される


そして、実際に大事な通知が来た時(報酬を得た時)にはより多い快楽物質が出てくるそうだ


これは、脳内が実際の果実と、スマホから得られる情報の区別ができていない事を意味していると考えられる


だから、我々はスマホをついつい見てしまうのではないだろうか?


我々は博打好きの子孫であり、スマホは博打

 

だから、依存性の強いギャンブルの様なスマホを子供に持たせるのは危ないと言う人がいるそうだ

 

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この記事の参考動画はこちら↓

スマホ脳解説】怖すぎるスマホと脳の関係!パチンコ中毒者ともはや同じ!【岡田斗司夫切り抜き】
https://youtu.be/Ritf8OMA9ZU

 

寂しい時の対処方

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寂しい時の対処法を考えていたので記録する

 

最近、毎日仕事をしている

 

何連勤だろう?

 

だからなのか、今日は誰とも喋らなかった

 

あの人と今から会いたい

 

ふとした時に、

 

いつもの夜なのに、そんな風に思ったりはしないだろうか?

 

YouTubeで可愛い動物の動画でも見ればいつもはおさまるのに…

 

誰だって寂しい時はある

 

では、なぜ? さみしいと感じるのだろうか?

 

それは、

 

「自分が誰かにとって必要だと思えないからではないか?」

 

自分は誰かにとって必要だと思えない時に起こる様な気がする

 

自分は必要だと思えない、

 

誰からも必要とされていないという気がした事はないだろうか?

 

誰かに必要とされていると思うためには?

 

他人と関わらないといけない

 

いくら自分で自分が大切だと思い込んでも限界があるのではないか?

 

誰だって本当は寂しい

 

寂しいのは人間の宿命なんだろうか?

 

関わってもらえない

話を聞いてもらえない

 

そんな存在であるならば

 

自分は相手にとって必要だと考えるのは難しいだろう

 

また、関わるとしても自分のことを大切に思ってくれない人とは会ったとしても結局寂しいままだろう

 

女の子のつまらない話をずっと聞いてると人気者になれることってないだろうか?

 

それって、話を聞いてくれているのは大切に思ってくれている

 

そう、その女の子が感じるからではないだろうか?

 

しかし、たまにひとりでいても寂しくないと言う人がいる

 

人は誰しも必ず何かに頼って生きている

 

例えば、何でも話せる親友や恋人がいたり

 

自分の仕事に没頭していたり


没頭できる物が有れば忘れられる

 

さっきも言ったけれど、寂しさというのは自分が誰にも必要とされていないから感じるのではないだろうか?

 

自分が仕事をすることで多くの人に必要とされていると感じることができた場合、仕事をすれば寂しさを忘れられる

 

他人から認められれば自ずと満たされていくのではないだろうか?

 

何かに一生懸命打ち込むというのも同じ事の様な気がする

 

人に必要とされるための訓練を積む必要が有るのかもしれない

 

仮定をもう一度振り返るが、


寂しいと感じるのは、自分か誰かにとって必要な存在と思えていないからではないか?

 

ならば、認められる人になった方が良いのではないだろうか?

 

相手が間違った事を言っている、相手とは考えるていることが違う。

 

そうだったとしても、最初から相手の話しを否定してから自分の話をする必要なんてない

 

全て完璧である必要は無いのかもしれない、たまたま自分の時にその人はミスをしたのかもしれない

 

許す心、我慢する心、それが全くない人間になると

 

いずれ寂しい状況へいざなわれていくのではないだろうか?